家康と信長はなぜ裏切らなかった?清洲同盟の真実と築山殿事件の闇
家康と信長はなぜ裏切らなかった?清洲同盟の真実と築山殿事件の闇についての真相をお届けします。
元亀3年(1572年)、武田信玄が上洛を目指して大軍を率いて遠江へ侵攻した三方ヶ原の戦いは、二人の関係における最大の試練でした。このとき信長が送った援軍は佐久間信盛らわずか数千人規模にとどまり、徳川軍は武田軍に惨敗を喫します。
一見すると信長が見殺しにしたかのようにも映りますが、当時の信長自身も浅井・朝倉・本願寺・比叡山といった「信長包囲網」に四方を囲まれており、兵力を割く余裕が全くない極限状態でした。家康もその事情を理解しており、手痛い敗北を喫しながらも同盟を破棄することなく武田の猛攻に耐え抜きました。
この危機を乗り越えたことで、織田と徳川の連携はより盤石なものとなり、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける鉄砲隊を用いた武田軍の壊滅へと結実することになります。