蘇我蝦夷と入鹿はなぜ滅ぼされたか?乙巳の変の真相と滅亡の決定打
蘇我蝦夷と入鹿はなぜ滅ぼされたか?乙巳の変の真相と滅亡の決定打の疑問点について、分かりやすい解説を取りまとめてご紹介します。
蘇我氏の権勢と悲劇的な結末を今に伝える現場が、奈良県明日香村の各地に残されています。現地取材と近年の考古学的データから、その生々しい足跡が確認できます。
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明日香村を見下ろす景勝地・甘樫丘(標高約148メートル)。『日本書紀』には、蝦夷が山頂近くに「上の宮門(えつのみかど)」、入鹿が麓に「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼ばれる豪壮な邸宅を構え、武器庫や水源を備えて武装化していたと記録されています。2000年代以降の奈良文化財研究所による発掘調査では、甘樫丘東麓遺跡から7世紀前半の焼けた建物跡や兵器用の工房跡、炭化した木材が次々と出土しました。蝦夷が自ら火を放ち灰燼に帰したという記述を裏付ける物証として、考古学会に大きな衝撃を与えました。
一方、日本最古の本格的仏教寺院である飛鳥寺(安居院)の西側には、ひっそりと佇む「蘇我入鹿の首塚」(五輪塔)が存在します。伝承によると、板蓋宮で首を切り落とされた入鹿の首は、宙を飛んで中大兄皇子らを追いかけ、この飛鳥寺の境内に力尽きて落下したとされています。
現在も首塚の前には花や線香が絶えることがなく、訪れる歴史ファンからは「逆賊として描かれた入鹿だが、実際は国を思って散った悲劇の政治家だったのではないか」といった追悼の声が多く寄せられています。現地を歩くと、蘇我氏が築いた飛鳥の都市計画の壮大さと、一瞬で政治の表舞台から消し去られた無常感が痛烈に伝わってきます。