美川憲一『柳ヶ瀬ブルース』はなぜ社会現象に?誕生秘話と衝撃の真相
美川憲一『柳ヶ瀬ブルース』はなぜ社会現象に?誕生秘話と衝撃の真相の真相や最新動向に迫る! 専門的な視点で紐解きます。
美川憲一の歌手人生における最大の転機となった『柳ヶ瀬ブルース』は、1966年(昭和41年)4月1日に日本クラウンからリリースされました。しかし、この曲が世に出るまでのプロセスは、レコード会社が主導する当時の王道プロモーションとは大きく異なる、異例の現場発信型プロジェクトでした。
1965年に『だけどだけどだけど』でデビューした当時の美川憲一は、美少年アイドル路線の青春歌謡を歌っていました。しかし、舟木一夫や西郷輝彦といったトップスターがひしめく中でスマッシュヒットに恵まれず、2枚目のシングルも不発に終わるなど、芸能界での生き残りをかけた厳しい局面に立たされていたのです。
運命が動いたのは、地方巡業で訪れた岐阜県岐阜市の歓楽街・柳ヶ瀬でした。夜のクラブで耳にしたのが、地元で流しの歌手として活動していた宇佐英雄(作詞・作曲)が歌う『柳ヶ瀬ブルース』の原曲でした。「雨の降る夜は 心もぬれる まして一人じゃ…」という哀愁漂うフレーズと独特のメロディラインに衝撃を受けた美川憲一は、「この曲を歌えば絶対に売れる」と直感し、自ら所属ディレクターに直訴。小杉仁三によるムード歌謡特有の艶やかな編曲が施され、美川の3枚目シングルとして吹き込まれることになりました。
当時の特番インタビューや自著・手記において美川本人は、「それまでの清純派路線を脱ぎ捨て、自分の本来の低音ハスキーボイスを前面に出す覚悟を決めた瞬間だった」と述懐しています。弱冠20歳の青年が夜の歓楽街の哀愁を歌い上げるというギャップは、当時の歌謡界に鮮烈な衝撃を与えました。